クラインとグレイ
「よォ、久し振りだなクライン」
レンチに力を入れていた手を止め顔を上げれば、久しく顔を見ていなかったグレイさんがいた。シャッターに手をかけ覗き込む姿は以前に見た時よりも渋く、有り大抵な男が着たなら雰囲気負けでもしてしまいそうな艶消しされたレザージャケットをアトラクティヴに着こなしている。
「ナハトとアイネは元気か?」
「相変わらずですよ、ついでに親父も」
余計な情報はいらねーよと笑っているのにつられつつ、煤に汚れた軍手を脱ぎ軽く作業ズボンへ拭いてから差し出された手を握り返した。俺の手が埃っぽく汗ばんでいても気にした様子もなく強く握り返される。バイクのグリップで皮膚が固くなっているその手は男の俺からみても男らしく感じ、聊か幼い日に感じていた強い憧れを想い起させた。
彼は俺の最もの理解者で、一番信頼を寄せる人間と言ってもいいかもしれない、両親の友人だ。
「本当にお久し振りですね、どこかツーリングでも?」
「そんなところだ。まとまった金が手に入ったから新しいモン買う前に楽しんでおきたくてな」
夏も目前、上りだした気温に虫が煩く騒いでいる。本格的な梅雨を前に一度このバイトで稼いだ貯金をはたいたバイクを動かしておきたいところだった。
同じくバイクを趣味としているグレイさんには何も言わずともそれを察してくれているようで、良い具合に仕上がってんじゃねーかと強めに座席を叩き歯を見せる。
そういえば、グレイさんがバイクを始めたきっかけはうちのお袋が関係していると耳に挟んだことがある。気になりはするが、なにがあったのかを聞くのは野暮な事のように思えた。恐らく彼が俺の「理解者」たる所以に少なからず関わっているような気がしたからだ。
「母は家にいますから挨拶してきてください、きっと連絡もしないでどこ行ってたのって叱られるでしょうけど」
「んなこと言われちゃ行きづれーじゃねーか」
呆れたような顔をして俺の肩を小突くが、涼やかな態度の中にもどこか楽しみにしている雰囲気が伝わってくる。
彼がジュビアさんに向ける眼差しとは別の、暖かで胸が締め付けられるような視線を母に向けていることに気づいたのは、俺自身が母に対し人には言えぬ感情を秘めていると自覚したときだった。
「じゃ、アイネちゃん行ってきます。夕飯までには帰るから」
タイミング良く、いや悪く、親父が家から出てきた。
「アイネ期待してないからごゆっくり」
「なんでそういう事言っちまうかなー…」
「だってそうじゃない、この間だって、…えーと、ヒール折れたキレーなおねーさんを介抱して遅れたって」
「キレーなんて言ってないぜ?ヤキモチ?」
「違うわよ、どうせパパはブスでも綺麗だとかなんとか言うんだってアイネ知ってるんだから」
玄関先でイチャつき始めた両親に溜息が出るのは正常の反応だろう。なんとなしに申し訳なくなりグレイさんへと視線を向ければ、グレイさんもこちらへ視線を向け「確かに相変わらずだな」と呆れたように苦笑した。
「つーか、アイツいまだにアイネちゃんだなんて呼んでんだな。前に会ったときはママとか呼んでなかったか?」
「母は親父にそう呼ばれるのがイヤらしいんですよ。機嫌悪くなって、私はあなたのママじゃない、なんて言ってマジギレするんです」
「そりゃまた…相変わらず可愛いこって」
一方親父の方は「パパ」と呼ばれることにはなんら抵抗がないようで、むしろいやらしくほくそ笑んで喜んでいる始末。
それがどんなに俺の神経を逆撫でしているのか親父は、もちろん母もわかっていない。いつまでたっても仲が良い両親が家の中でそう呼び合うたびに俺がどんな顔をしているのかわかっていないのだ。
「オイ、客の前でなにイチャついてやがんだ」
グレイさんの大きな声に、ドロドロとした感情に飲み込まれそうになっていた意識が浮上した。
ようやくこちらの様子に気づいたらしい両親は、久し振りに見る顔に大きく顔を輝かせ歩み寄ってくる。
「…アイネ、俺がお客さんにお茶の準備してくるからここで相手してて」
「あら!いい子ねクレインくん!…でもママのこと名前で呼ばないでって、アイネ言ったわよね?」
両頬をパン、と軽く挟まれ苦笑する、ふりをする。
恐らく後ろの方でグレイさんは驚いた顔をしていて、親父はそちらに困った顔で目配せをしているはずだ。呼び方が変わったのは両親だけじゃないのだ、無理もない。
親父は俺では何を考えているかわからない顔をしてグレイさんと何言か話したあと、母へとキスをしてから慌ただしく出かけていく。良妻な母はグレイさんに少し詫びたあとその背をおいかけ、見えなくなるまで見送るのだ。
「そういうとこは親父似だな」
と、二人きりになったところで呆れ顔を向けられたが、断じて認めたくない俺はその言葉を聞かないふりをして“いい子”に手を洗いに家の中へと入っていった。湿気の増し始めた外気に比べ、家の中は頗る快適に保たれている。