ムジアイ 夫婦編

 

 

 彼氏となったことがついこの間のようだ、と旦那は言っていた。

 アイネにとってそれが長かったことなのか短かいことなのかは測り兼ねているが、この結婚生活は決して悪いものではなかった。面白くない事が起きるときもある。だが大きな喧嘩という形となっていないのは旦那であるムジカの懐の深さ…というよりは、当の嫁であるアイネもひしひしと感じる、ムジカがアイネを溺愛しすぎているせいな気がしてならなかった。

 結婚してから幾年か過ぎ、子供が手を離れはじめた今日。以前から復帰したいと思っていた花屋へパートで勤めている。

 花に囲まれることは学生時代園芸部に入っていたように若い頃から好きであったし、好きなことをしてお金までもらえるなんて夢のようだった。貯まったお金は、子供や旦那となにか美味しいものでも食べたりして使うつもりだ。

 勤める時間は旦那が仕事に行っている日中、短時間だけであるし、きちんと主婦としての仕事に手を抜いたりはしていない。

なにも悪いことなどないはず。それでもムジカは、表面上は笑顔でどんなに今日は楽しかったのか聞いてくれるのだが――長年連れ添ったアイネだからわかる、心の底では面白く思っていないようで。

仕事に励む男としてのプライドなのだろうか。とアイネはその不服そうな腹の底を感じるたびに首をかしげるのだった。

 

 暖かく花が芽吹く春。本日も花屋の軒先には色とりどりに輝いている。

 水の入った重い筒をよっこいせと持ち上げたとき、アイネの頭上に影が入った。

「いらっしゃいま…せ?」

 振り返った先にいたのは。

「パパ?」

「花束をひとつ見繕ってもらえるかい?ママ」

 仕事中のはずの旦那がそこに立っていた。いつからだったろうか、恋人同士であった時に使っていたムジカくん、という呼称ではなく、驚いた時にも自然と彼を「パパ」と呼ぶようになったのは。

 びっくりといった言葉が似合う顔をしたアイネが落としそうになった筒を大袈裟でない仕草で支える旦那。相変わらずのスマートさにきょどきょどと、身長差のあるムジカの顔をチラ見しながら花屋の奥へと案内していった。

 なんできたの、という問いには営業先に祝いの花束が必要になったから、などと饒舌に理由がかえってくる。

「…そうじゃないでしょ、パパ」

 声を潜めてアイネは顔を伺った。

「さすがママ、わかっちゃう?…どんな風に頑張ってるのか気になってさ。仕事姿も可愛いね」

 結婚は墓場だという言葉など微塵も思っていないらしい。毎日、という頻度ではなくなったが未だにアイネのことを愛しく思っているらしい言葉を恥ずかしげもなく告げてくるのがこの旦那だ。

 外でやめてよ、なんて言えば家でならいいんだ?と甘い事を言おうとするのはわかっていて、ベタベタと寄ってきそうな彼を無視するようにビニールを引っ張り出す。

「どのような色がお好みですか?」

「そうだな、この季節らしい色がいい。安定が好みの女社長なんでね」

 営業先でも無自覚にナンパな事を言ってやしないかと、若い頃にはヤリチンと噂されていた旦那に溜息が洩れる。嫉妬だとかそういうものではない。呆れだ。彼が決して浮気などしないことはわかっている。

 と、そこに店の奥から若い男が現れた。

 店の主人の息子で、将来この店を継ぐのだと言っている爽やかな青年。大学が休みのときはこうして店を手伝っている。

「あれ、アイネさんそろそろお昼休憩ですよ」

「ええこのお客さんが終わったら」

 ひとり息子だからなのか、甘え癖でもあるかのように店主の息子は人の傍らに寄っていくくせがある。

 相変わらず大きいな、と思いながらアイネがなるべく華やかな花束を編上げていれば、ふいに肩に熱い手がかかった。

「どーも、妻がお世話になってます」

 またアイネがびっくり、の顔を向けることとなった。ニコリと営業の顔をした旦那がアイネの肩を抱き寄せている。

 ああ、店主の息子さんが苦笑いをしているのではないか。

 自分の耳が熱くなっているのは自覚できたが固まって動くことができなかった。恥ずかしさに顔を上げられない。

 呑気にそのまま息子さんと世間話をしだす旦那をひそかに恨めしそうに睨みながら、帰ったらお説教しなくちゃとアイネは八つ当たりのように植物をギュ、ギュと輪ゴムで締めあげるのだった。

 実際には、帰ってから説教をしだしたのはムジカの方だったが。そして長男が帰ってきて止めるまで久し振りの夫婦喧嘩は続いたのである。