荒美←黒

「こ、こんにちは」

 という鈴の音を鳴らしたという表現が似合う可愛らしい響きを、黒尾は見下ろした。小さくドモりながらもじもじと手遊びをしている少女の桃髪を春風が揺らし、薄らと染まる目許をチラりと見せる。

ふわりと香る草のにおいに混じる香水は、確かリリィだっただろうか。今クラスの女子の間でも流行っている香水だと、ゆっくりと瞳を細め黒尾は少女を見つめた。

有り触れたファン。有り触れた女子。

それが黒尾にとっての第一印象。

 

「荒北、また来たのか」

「うん!」

 ちょうど関東バレー部合同合宿が神奈川に決まり、そういえばあの少女の出身はこのあたりだったかと、マメな男が連絡を取ったのは数日前。蝉の煩さなどさして気にもとめていないように涼しい顔をしている黒尾の胸元あたりでは、初めて出会った時のように手遊びをした少女が微笑んでいた。

 毎日、というわけではなかったが、気まぐれに体育館へと美優紀と名乗った少女は現れた。女マネのいない音駒バレー部員には、その可愛らしくも少女らしい彼女は刺激が強いらしく、来れば逆に彼女を見学したがる者も…一部いる。

「あ!あ、あ、あの…」

「なァに虎チャン、ウザいヨ」

「う、ウザ…!」

 追い打ちをかけるように、ウルサイ、と言われてしまえば彼女のいちファンである虎徹はすごすごと去っていく。というのも日常の事となりつつあった。

 黒尾だけと面識しているときにはわかりづらかったが、どうやら彼女は「猫っぽい」ところがあるらしく――そういえば顔立ちもなんとなくアメショのような可愛らしさがある――お気に入りの黒尾以外の前では、なかなかに口悪く、そして研磨によればタチの悪い「カキンチュウ」という荒っぽい部分もあるのだとか。

 黒尾からすれば、ただの犬っぽい子猫なのだが。

「あーあ、泣かせちゃって。悪い女」

「いいのォ、あれくらいしないと本当にうるさいんだヨ、あの人」

「ま、ゆっくりしていきなよ。もうすぐ休憩――」

「だめー。今日はヤスチャンと来てるからもう帰るの」

「…ヤスチャン?」

 「黒尾」はテレビで見れるから充分だろう、ヤスチャンがあんまり黒尾と話すなと言った、と美優紀は何故か得意げに語る。

 何のことだかわからないが、鼻息ふんふん自慢げな様子は単純に男の加護欲を掻き立て、話を聞いているふりをしながら不思議ちゃんな少女の髪をさりげに撫でようと手を伸ばした時。

「・・・」

 指先から産毛が逆立つような、野生じみた視線を感じ顔を上げた。

 ミンミンと煩い蝉の音がする方向、木陰の元にひとりの長身な男が立っていた。見るからに体の線は細そうであったが、スポーツマンが見ればそれとわかる、自転車に「熱中」している筋肉が脚に見えた。

「箱根学園だったな」

「んー?」

「荒北のいるトコ」

「そーだヨ。箱根学園」

 同じ苗字をテレビで聞いたことがある。その競技に関して「王者」と称されるそのチームで、無敗の新星だという名を。

 覚えていたのは彼が黒尾と同い年だからだ。

 年の頃を考えれば彼女は彼の妹。義理というわけではなさそうな、似た顔立ちだ、間違いないだろう。

 だがあの視線は。

美優紀、帰るぞォ!」

 叫ぶ声は随分とドスが効いていた。低く響くそれに何人か部員が反応する。

 部長としては彼の重い空気を体育館へ届かせるべきではないだろう。だが、黒尾は口角を上げ猫背を伸ばした。

「ヤスチャンと仲良いみたいだな」

「!! 黒尾、ヤスチャン知ってるのォ!?」

「ハコガクの荒北は有名」

「えへへ」

 自慢げなのはそういうことか。随分ブラコンらしい、垂れた目をして少女は頬を染める。

 兄の事に夢中で黒尾が肩を抱き寄せたことに気づかない。

 彼女はただ、有り触れたファンのひとり、女子のひとりだったはずだが。小さな肩を抱いてみればそれはそうじゃなかったのかもしれない、と腹の底にストンとその曖昧な独占欲を落とした。

 兄である彼の方が近しいのか、それとも自分の方が視線を奪い得られるのか。

 以前、何故自分に声をかけたのだと自然な話しの流れで尋ねた時には、テレビで黒尾を見たのだとだけ答えが返ってきた。それ以上でもそれ以下でも無いのだろう、黒尾への感情を勘ぐる部員達に美優紀は不思議そうに首を傾けた。

 同じような顔をして、肩を抱いている黒尾に気づいた美優紀が見上げてくる。

「ちょ、ちょっと汗臭いんだけどォ」

 唇を尖らせる少女にニコリと微笑み返せば、その頬は薄く染まった。俯き、手遊びを始める。

 そして木陰からの鋭さを持った威圧が黒尾を包み込んだ。

「…美優紀ちゃん、その香水、お兄さんのチョイスじゃない?」

「そんなこともわかっちゃうんだァ!」

 きゃっきゃと無邪気にはしゃぐ少女の間延びした声が心地良かった。そろそろ花の香りは部活を終えた男の汗臭さに混じっただろうか。

 

 そして木陰の黒い影は、鼻を拭いゆっくりと痛いほど眩しい陽の元へ、その細くとも太い筋肉張った脚をあらわした。