ムジアイ

 

 御存じだろうか、悲劇とは最高の喜劇であるということを。

人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇。俺が敬愛するチャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニアのその言葉の通りの事象がいま目の前で起きようとしていた。

 まずはその、俺が好きな言葉から説明させてはくれまいか。なに、焦らした方がメインディッシュは美味いという。

 クローズアップとはつまり、焦点を絞り込んでいる状態だ。困難だとか悪戦苦闘している真っ只中の状態。そういった時は自分の人生がいかに悲劇であるのかばかりが見えてしまう。だがそれは様々な経験を経た人生の先、あとからその悲劇を振り返れば、ああそんなこともあったと笑ってしまえる。それがロングショットで見た喜劇。…なんて、単純に言葉を捉えたならそう説明づけられてしまう。だがこの言葉を更にロングショット、俯瞰して考えてみてくれ。悪戦苦闘している当の本人にとってそれは笑いごとではないが、災難に見舞われたコメディアンを観る他人、観客にとってそれは喜劇。そういう意味にもとれないだろうか。

「…――へぇ、この間のライブも来てくれてたんだ。でもハズいな、あの時のライブは醜態晒しちまってたし…」

 壁に手を付き項を撫でているのは俺のクラスメートのムジカ君。2年生の中でも女子から人気のある男であり、彼含む最も人気実力のあるイケメン男子――通称(俺が名付けた)強イケ男のお蔭で我々2年男子のお株が日々鰻上りなのだから我が2年男子勢も鼻が高い。強イケ男の中でも女好きでナンパ癖のあるムジカ君は俺らと並んでいてもどこか大人びた雰囲気があり、ヤリチンとの普通はマイナスになるはずの噂もむしろ彼を“危険な男”たらしめて猫の皮を被った雌豹系女子に人気があるのだ。

 いま彼の筋肉質で長い腕と逞しい体とに挟まれている女子の顔を見れば、どれだけ彼から溢れ出る危険な色気に魅了されているかがわかる。

 この状況とチャップリンの言葉のどこがかかっているか。それはムジカ君の頭上から見下ろす可愛らしい女の子が、次に発するだろう言葉、それが俺には予測出来てしまうからに他ならない。

 俺は彼女をよく知っている。なにせ、彼女は3年前――我が中学最後の夏に苦い思い出を彩った可愛い可愛い部活の後輩なのである。

 それ、出るぞ。

「趣味悪~っ」

「!!!」

「アイネちゃん?」

 階段の途中から手すりに頬杖をついている可愛い俺の後輩アイネちゃん、二人きりの世界だと思いどっぷりとムジカ君に浸っていたが水を差され状況を飲み込めない本校の女子、そしてまるで通りかかった可愛い野良猫が鈴を鳴らしたことに気づいたかのような平然とした驚きをみせるムジカ君。

 まさに三つ巴の状況に俺は紙パックジュースを床に置いて本格的にそちらへ意識を向けた。

 女子をナンパしているムジカ君へ苛立つ様子もなく、怒った様子や蔑む雰囲気でもなく、ましてや悲しそうな顔をするわけでもないアイネちゃん。どこか甘みを含んだ様子で女子に軟派な言葉をかけていたところをアイネちゃんに見られてしまったことに悪びれた様子もないムジカ君。そのどちらの様子も俺の常識の範疇から離れていて、相変わらず理解が出来ない。

 2人が只の友人間ならば俺もそうは思うまい。なにせ、アイネちゃんとムジカ君はお付き合いをしているのだ。

 最初に同じような現場を見た時は胃が痛かったものだが、もはや俺もこの光景に慣れてしまっている。

 大きく目を見開いて口をパクつかせるほど動揺しているのは名も知らぬ女子だけである。

「本当ブス好きね、この間声かけてたのも微妙っていうか~…ブス専なの?」

 よくもまぁ、ムジカ君にしろ名も知らぬ女子にしろ、当人を目の前にしてそのような言葉を並べられるものだ。それもニヤニヤと嘲ったような笑みを浮かべて。

 付き合っている男と知らぬ女がイチャついていれば、そりゃあ腹も立つだろう。悲劇蝶々夫人なんかは自害を、いやあれは結婚しているはずの旦那が異国で別の女と結婚をしているのであってこの状況とは全く違うが、それでも好きな男付き合っている男が他の女と睦言を言い合うような状況を見てああして平然といられるものか。

 アイネちゃんの笑みの中にそういったドロドロとした裏があるようには到底見えないのは俺の慧眼が鈍っているからなのだろうか。彼女はただただ、楽しそうに、嘲っている。

「あ、ちょっと!」

 俺が悶々と思案を広げているうちに見知らぬ女子がアイネちゃんの口撃に耐え切れなくなったらしい、ヒラリとミニスカートを翻して走り去っていく。滅茶苦茶早い。フォレスト・ガンプかと胸の内でツッコミを入れながら人生はチョコレート箱だぜ、なんて。本当に食べてみるまで中身はわからないものだ、甘い声をかけてくるからといってムジカ君は逃げ去った彼女にフォローの言葉なんかひとつもかけたりしない。

 ああ、なんて面白い喜劇なんだ。

 直接的な好意を示すわけでもない、だが甘い言葉をかけるのなら何かしら好意があるんじゃあないかと考えてしまうけれど。ムジカ君は何を考えているかわからない顔をして、視線を流したあと意識をすべてアイネちゃんへと向ける。

 恐らく、恐らくだが、恐ろしいことにムジカ君はアイネちゃんにしか興味がないのではないか。

「そんな処にいたら、パンツ見えちまうぜ?」

「見れるのかしら?ヘタレムジカくん」

 ニヤニヤと見下ろしながら、意識してか腰を緩く揺すればスカートのプリーツがサラリと靡いた。その挑発的な姿は男ならば誰しもが胸の奥に潜めている劣情を掻き乱されるのではないか。かく言う俺も、そんな男心を揺さぶる彼女に入れ込んでしまったことのある男のひとり。去年の夏、みごと玉砕した懐かしい記憶…それも今や喜劇――。

「今日は白か」

「……変態」

 俺が思いを馳せているうちに、どういう手品をつかったのかムジカ君の指には純白の薄い布地がたなびいていた。スカートの裾を握り、先程までの強気な態度と打って変わって真っ赤になり睨みをきかせている弱々しさといったら、ますます俺は自分の胸を掻き毟りたくなってしまう。ああ、そしてあれがアイネちゃんのパ…、と食いつく前にその布は見えぬところへ隠されてしまう。

 まったく、どいつもこいつも俺を振り回す。

「返して欲しかったらこっちに来いよ、はかせてあげるから」

「アイネ、趣味が悪い人のそばにはいきたくないの」

「趣味はいいと思うけど?アイネちゃんのことが誰よりも好きなんだし」

「誰にでもそう言ってるんでしょ、アイネ知ってる」

 何も布地がないのは心許ないのだろう、ついにその場にしゃがみ込み彼女は膝を抱えてしまった。ふたつ並ぶ膝へふてくされた頬を隠し、そこから送られてくるジト目は破壊力抜群。並ぶ細い足首から左右に零れるおしりの白さに、気を抜いてしまうと股間に手が向かってしまいそうだ。

 間近で見ているはずのムジカ君の心中はどうなっているんだろうか。俺と同じようにドロドロとしたどうしようもない雄が暴れまわったりしていないんだろうか。

 あくまでも涼しい顔をして、彼は緩く首を振り項を撫でる。

「アイネちゃんだけだよ」

「・・・。」

「…怒ってる?パンツ取るのはやりすぎたか…悪ィ」

 膝へ頭埋め黙り込んでしまわれればさすがに焦りの色が見え、手すりの柵へ手をかけ軽くそれを乗り越え彼女の肩を抱いた。

 抵抗することなく、アイネちゃんは緩く首を振る。

「……別に、嫌なじゃいもん」

 ああ…ああっ!決して俺の前では見せることのなかった顔をチラリとだけ見せ、アイネちゃんは膝に顔を埋めたまま傍にしゃがむ彼の肩へと寄りかかった!

 雑な監視カメラの映像からでもわかる、彼女とムジカ君の間に流れる空気は息が吸えないのではないかというほど濃厚な甘さをもって。

 決してナンパをするムジカ君に嫉妬しているような素振りもないのに。そして彼は可愛い女の子がいればアイネちゃんがいるにも関わらずナンパ癖を直すことができないのに。

 ああこの二人は、コジ・ファン・トゥッテを鼻で笑ってしまうのではないか。この二人は、恋人が浮気をするか確かめる為に二組が恋人を交換する、なんて事をしても決して揺るがない究極に近い関係なのではないか。

 たまらなくなったらしい、男臭い顔をした彼がスローモーションで彼女の唇を奪いにいく。彼女はじゃれつくように爪立て肩を押すが、逆に煽られたらしい、ムジカ君は耳や顎骨へ噛み付いて満足げに離れた。

 きっとこのまま二人は手を繋ぎ、去っていくのだろう。

 

 そうしてひとつの幕引きをみた充実感に満ちていた俺はすっかり、まるでこの世に自分が存在していることを忘れてしまったかのように、自分自身が舞台や映画を観ている観客の気分でいて。

 まさか去り際の彼女と視線が合うとは、悲劇が振りかかるとは思わなかったのだ。

 

「…ほんと、昔から気持ち悪い趣味してるわよね、センパイは」