黒マリ

くろまりを書く

 

 

 あれは今朝の9時ぐらいだったか。昨晩の時点で、クライアントとの談合が思いの外早く済んでいたのでゆとりを持った出社が許された本日の、AM9:00くらいのことだった。この頃にクリーニング店から受け取ったワイシャツは、パリパリと糊が張って晴天の青空にプリーツの白が良く映える。久々の解放感に、黒尾は仰いだ目を細めた。

 「まっくろな目なのに、空を見ると、青くなるのね」

 ――なんて、当然なことをうたった彼女のことを思い出す。桃色の髪の毛が印象的な、悪戯なのに思慮深いアンバランスな性格をした少女だった。そう、黒尾の思い出の中では毬井の存在など、少女のまま止まっている。

 毬井愛音という人間と、自分は元高が同じ程度のよしみだ。特段関係があった訳でも、交友があったわけでもない。ただ、猫又監督が片手間に園芸部の面倒もみていたので、当時3人ほど在籍していたその部活の一員である毬井とは時折顔を合わせていた。だいたい、毬井がスコップを持ってひょこひょこと体育館に現れては、「肥料代ちょうだい」とねだっているのを横目に見かけるぐらいではあったが。

 毬井は黒尾より学年が1つ下で、研磨と同い年であったが、とにかく研磨と同等かそれ以上に――ネコのような性格をしているようだった。昼休みに中庭に来遊していたと思えば、つまらなさそうに屋上でひなたぼっこをしている。奔放で掴みどころがない、少女だった。ちょうどその時、黒尾には女子大生の彼女がいたし、研磨のことでジェンダー問題については沈思することが多かったので、距離を縮める気は浮かばなかったが、しかし。確かに黒尾にとって、毬井という存在は目蓋のあたりで消えては現れる。

 そして、またいま現れた。

 思考いっぱいに溢れる桃色に、何となく居心地が悪かった。どこかで外れてしまったボタンを落としてきてしまった侭のような、そんな癪な感じがする。

 くだんの発言から数日後に、毬井が新米教師と交際しているとの噂を聞いた。その時小さな縁は解れたのだと、確信していたのに、何故かいま自分は生業と全く関係がない花屋へと歩を伸ばしている。毬井が働いていると同級生に聞いた花屋だ。

 モダンな革靴は切っ先が伸びていて、それとない洒落っ気を主張しているが、昼下がりの長閑な商店街には不釣り合いだった。なんなら黒尾鉄朗という男も、「○○会社勤務」という肩書を得てしまっては似合わない。下町でしがなくバレーボールを勤しんでいた頃では、もうなかった。捲り上げた袖口にじんわりと春風が吹きこんで、呼吸と同調してはシャツが膨らむ。グリーンのエプロンがよく似合う女は、その空間に馴染むように、花を撫でていた。