もじあそび

 その家に入ったとき、何だか仕様もなく懐郷感に苛まれた。ほんの数分前まで誰かいたののだろう特有の気配に加えて、近くの砂浜から流れてくる潮風が庭の花々を通って、なんとも形容しがたい可憐な匂いを運んでくる。シンプルな白やクリーム色で統一された家具や壁は、最近修築が済んだばかりであることが伺えるような真新しさもあるが、それ以上にインテリアひとつひとつに拘ったような家主の愛情が感じられる。
 思わず歩が止まっていた。
 あたたかな家庭、その一言が似合ってしまうような家だった。リビングの片隅に置かれたプリムラが、ささやかにきれいな桃色を彩っている。丁寧に丁寧に、花びら一つずつが愛でられたように育っていた。そのなかでチクタクと柱時計が穏やかに分針を刻んでいる。
 ナギサは固唾を飲んだ。あまりに自分がみすぼらしく感じたからだ。あまりに、日々の幸福を象徴するような風景に、ドッと毛穴が開いた。私は、私は――…身内だけ集めた簡単な挙式、そしてその身内と言っても彼が懇意にしている友人達はいなかった。自分の「家族」としている馴染みや、父が出席して、ムジカはいつも通り飄々としていたけれど 逆に飄々としているのが常の彼だったから違和感もなかった。しかし逆を言うと、その様な貴重な行事に於いても「今、何を考えているのか」わからなかった。組織の頭領として、多忙なのだから中々帰宅できないことにも納得がいっていた。だから、別に婚約してから数か月経っても全く生活感が湧いてこない彼の部屋にも、特段疑問なんてなかった。なにもおかしくは

 「なかったのに、」

 遠くに公園でもあるのか、遊具が軋む音と子供がはしゃぐ声が重なって聞こえる。思わず白目を大きくして見開いていた双眸に、いろいろな情景がフラッシュバックした。
 出逢ったばかりの自分の意をいつも汲んでくれたこと、怒ってくれたこと、素直になれずにいれば茶化して和ませてくれたこと。どれも平和なものばかりではなかったけれど、そこには確かな「愛情」があると。信じて疑わなかった。
 血の気が失せて色褪せた顔色をしたナギサが、フラリ、と脚をもつれさせる。可笑しくなった気のする動脈が気味の悪い鼓動を、鳴らしていた。今にも叫びだしたい気分を抑えてウ、と小さく唸る。
 
 「……あれ、誰かいるの、」

 素っ頓狂にしていても、高くて細くて、しかし甘やかさがこぼれてしまっているような声だった。正しい持ち主に所持されてると言わんばかりの、可憐な。
 ナギサのそれより、幾分か淡く色素の薄い桃色の髪をもった女は侵入者に警戒しているのでもなく、ただ純粋に驚きを以て佇んでいた。買い物を済ませてきたらしいチープな白いビニル袋が、ちょうど引き戸に落とされる。自分が誰であるのか、咄嗟に分かってしまったような顔をしていた。そしてそれはナギサも同じくしていた。
 未だにあどけなさが残っているものの、相変わらず人形の様に整った風貌をしている。陶磁と形容するにふさわしい白い肌、化粧っ気がなくても赤く艶やかな唇、どれもが懐かしいようでいて果てしなく嫌悪感が燻られるような。特にその微風に揺れる髪にナギサの意識が向いた時、とぐろを巻いた感情は憎悪に変化した。同じ桃色の髪の毛。どちらが先に彼と出逢っていたのか、はたまた、あの時自分を助けた理由を邪念しては耳鳴りがする。

 「ッアンタ、……」
 
 此処まで声色に憎悪を込められるとは、思っていなかった。ナギサはホルダーから短刀を取り出すと、その切っ先をアイネに向けた。